はじめに・・・

世界は既にグローバリゼーションに覆われている。それは、機械技術の進歩に裏打ちされている面もある。航空機などに見られる交通機関の 発達は、人、物の移動を容易とし、情報技術の革新は既に時間や場所といった概念を凌駕したところにある。その結果、私たちは「異なるモ ノ」と接触する機会がその昔と比べ物にならないくらいに増えている。

「異なるモノ」を理解する方法は、きわめて単純であり明瞭である。それは実際に触れ合うこと、コミュニケーションをとることに他ならな い。触れ合うことによって、お互いの偏見、奇異の視線を解消してゆく。

では、実際に「異なるモノ」と接触した際、私たちは何を主張することになるだろうか。身についてない事を表現するなど、できる訳がない。 そこで私たちが表現するものは、この心身にまとわりついたモノ、自文化にほかならない。自文化を主張し、相手の文化と対峙させることに よって、互いの差異、均質性が認識される。結果として、問題となるのはどのように自文化を表現し、相手に意図した理解を与えるかという ことになる。

この問題を、特に絵画や建築などに見られる芸術運動、その運動の土壌となる都市や風景といったものに視線を向けて検証してみようという のが私の研究テーマである。もちろん私にまとわりついている文化的記号は「日本」にほかならない。なので、実際に扱うのは「日本」を巡 る現象となる。また、唯一の異文化接触はドイツとその周辺になので、比較対象として中部ヨーロッパをとりあげることが多くなるだろう。

論文・・・

特別掲載・・・