Postmodern architecture and
concepts of space 〔B班〕

Part.1
発表日:平成14年5月29日
発表者:田中裕美・西宮佑騎・小川望・小山景子

>続きへ
D班レジュメへ
>議事録へ

〈要約〉
Introduction

  建築はポストモダンの主題が議論され、定義された領域のひとつであった。その理由の一つとして、建築物は非常に明らかな公共的側面を持っており、人々の生活に影響しているということがあげられる。1960年代遅くに開始された、モダニズム建築に置き換わるものについての議論は、建築家だけでなく、理論家や地理学者といった人々から注意を受けることとなった。


≪Modernist architecture≫

  ここで最も影響を及ぼした建築家は、Walter GropiusLe CorbusierLudwig Mies van der Rohe である。

Walter Gropius(1883−1969)

  1919年――学長としてワイマールに国立の造形学校バウハウスを創設した。バウハウスの教授陣はグロピウスの音楽サークルの人材で構成され、著しく表現主義的かつ文学的、手工芸的であった。このことは、グロピウスの最初の宣言文にも読み取れる。「すべての造形活動の最終目的は建築である・・・・建築と彫刻と絵画のすべてが統一ある形態へと包み込まれるような未知の新しい建築を願い、考え、そうして作り出そう。それはきたるべき時代の新しい信仰の透明な象徴として、何百人もの職人達の手から、天へと高まり行くことだろう。」

  1922年頃――デザイナー不足の状況を指摘し、それと連動して機械生産の問題にふれる。そうしてこれまでの表現主義的傾向は弱まり、合理主義的な思想が色濃くなる。

  バウハウス・デッサウ新校舎――グロピウスによって設計されたこの新校舎は学生宿舎、講堂などがブロック別に分離され、各機能に従った合理的なプランと、正面も側面も背面も等しく、ダイナミックに構成された建築であった。そこには正面観を強調する遠近法的統一はみられず、遠近法を否定した新しい視覚が生み出した空間構成の例としてキュビズムの絵と関連させて論じることができる。そしてこのグロピウスの様式は国際様式としてその後の建築にも根強く残ることとなる。

Bauhaus

  1919年、建築家ワルター・グロピウスによって、ドイツのワイマールに設立された国立の建築とデザインの造形学校および研究所。1925年にデッサウに、1932年にはベルリンへ移るが、1933年にナチスのために封鎖に追い込まれた。Bauhausの「Bau」とはドイツ語で「建築」を表す。これは「Architektur」に比べ手工業的なものを意味する。名前からも、生活と芸術を融合するため、空間を築く建築によって統合し、創造するというグロピウスの理念を感じ取ることができる。

Le Corbusier(1887−1965)本名:シャルル=エドゥアール・ジャンヌレ

  コルビュジェの主要な建築上の特徴は、ローコスト、大量生産のために合理化され規格化された建築、機能主義の弁護、19世紀の"style "に対する拒絶、非構造の装飾に対する断固とした立場を主張するものであった。また彼は、立体派の絵画などに影響を受け、ピュ―リズムを唱え、雑誌『レスプリ・ヌーボー』を発刊した。1923年に出版された『建築を目指して』に記載された「住宅は住むための機会である」という標語は近代建築の合言葉となった。1926年には、新建築の五原則―ピロティ、屋上庭園、自由なプラン、水平連続窓、自由なファザード ―を発表し、これはやがて国際様式の共通言語となる。1930年代には、「建築とは文明に枠組みを与えるものであり、したがって都市計画でもある」と述べ、都市計画に力をいれる。

Ludwig Mies van der Rohe(1886−1969)

  彼は国際様式を発展させ、鉄とガラスによる、余分なものをそぎ落とした建築を実践した。彼が、ユニバーサル・スペースとよんだその透明で研ぎ澄まされた均質空間は、彼の単純性の美学を表現する「レス・イズ・モア」という言葉とともに戦後の近代建築のひとつのモデルとなった。
Ex)
Lake Shore Drive
シカゴのミシガン湖に面する三角形敷地に直角に向きを 変えて配置された南北同形の2棟からなるアパート。
The Seagram Building
ニューヨークのシーグラム・ビルは、ガラスのカーテンウォールで覆われた直方体がまっすぐ立ち上がる構成を持ち、ミースの代表作と言える。

International Style(国際様式)の特徴

  デ・スティルやロシア構成主義などで試みられてきた抽象主義的なアプローチは変質しつつ互いに融合し、その流れは、1932年、ニューヨーク近代美術館で開催された『近代建築国際展』で頂点に達した。その際に付けられたのが、新時代の合理的な建築は国際的な普遍性を持つというグロピウスの思想に由来する「インターナショナル・スタイル」という名称である。

〈特徴〉

  1. 装飾の拒絶
    "装飾は犯罪だった"というように、モダン・デザインは次第に装飾を追放しようとしてきた。しかし、ここではすべての装飾を否定したわけではない。近代建築が否定したのは、過去の歴史的様式である。

  2. 機能主義
    さまざまな様式を恣意的に選ぶというあり方を否定して、一義的に形態が決まるという理論を提示した。「形態は機能に従う」という機能主義の理論はその典型である。

  3. 機械的な制作
    均等、合理化、規格化、アウトラインと幾何学の明快さ、これらは、主要な特徴となった。

  こうして、インターナショナル・スタイルは文字通り国際的な建築様式となった。


≪Postmodernist reactions≫
Pruitt-Igoeの破壊とポストモダン

  1954年、アメリカ、ミズーリ―州セントルイスに比較的低所得者向けの集合住宅群(Pruitt-Igoe)が建設された。「無駄な空間がない」との理由から、Architectural Form ,1951を受賞した。しかし、建築後数年たつと、住人は平均をはるかに上回る犯罪発生率に悩まされ、1972年にはついに、爆破、解体されることとなる。このできごとについて、Charles Jencksは"モダン建築は1972年7月15日15時32分、ミズーリー、セントルイスにおいて没した"と皮肉っている。これによって、近代建築が没頭してきたヘゲモニーに対する社会的抵抗が強固なものとなった。そして、近代建築が否定した伝統的な象徴性を復活させ、古典的な装飾をまとった建築が生み出される。これがポストモダンの始まりである。

20世紀前半

  Jencksは、モダニズムの束縛を逃れる一群の建築をポスト・モダニズムと規定した。それらは、表現的で、反合理主義で、非専制的な建築であり、多くのモダニズムの教義を拒否している。
Ex. )Jane Jacobs ―『The Death and Life of Great American Cities』
   Tom Wolfe ― 『From Bauhaus to Our House』
   David Harvey ― 『The Condition of Postmodernity』

20世紀後半

ポストモダン建築の発展は、多くの理論家が自身の位置を、遅れた消費者資本主義の明示として考慮していることを必然的に意味する。

Fredric Jameson 『Postmodernism , or the Cultural Logic of Late Capitalism』

彼は、この中でJohn Portman の Bonaventure Hotelをあげている。巨大で、反射性のガラスに覆われたそのホテルは、自身を都市から分離しているようにみえると指摘している。しかし、この包囲都市からの分離は、国際様式の記念碑のそれとは異なる。ポストモダン建築は、民主主義的な都会の空間を衰えさせるために審美的に役割を果たすのだと彼は主張する。

  国際様式の一般的な特徴は様々な建築の種種の機能を認めることに失敗した。住宅オフィス、などはみな区別がなく同様にみえる。この画一性は、周りの環境に何かを与えることができないと非難された。


≪What there is to learn from Las Vegas≫

Robert Venturi 『Learning from Las Vegas』

ポストモダン建築を論ずる為の用語はこの本から明らかにされた。彼は彼自身の建築における概念を以下のようにのべた。
純粋よりも混合を、きれいにすることよりも妥協を、まっすぐよりもゆがみを、明確なものよりも多義的なものを、質素さよりも豊富さを好む。
彼は、画一的な近代建築を拒絶し、地域に根付いている建築に賛成した。さらに、建築の通信機能の重要性を強く主張した。

「less is more」から「Less is bore」へ

  VenturiはMiesの「less is more」という言葉をもじって、「Less is Bore」と置き換えいる。モダニズムの建築がもたらしたものは、画一的で無味乾燥な息苦しい空間であり、それは開放ではなく、牢獄ではないかという意味合いがこめられている。

≪Charles Jencks and 'dual-coding'≫

「もしもベンチュリが主張するならば、建築は自身の記号の範囲に、 そしてそれらを意味する、コミュニケートする建築の言語として 再び新しく構築するべきである。」 by Jencks

  建築は部分的にベンチュリの'land mark work'から抜け出したけれども、ジェンクスは彼が理解する後期モダン建築からポストモダン建築を区別することに関心を示した

1960年初期  アメリカにおける歴史主義の出現 by Johnson

イタリアでは・・・

建築におけるポストモダニズムはイタリアのLuigi Moretti Franco Albini Paolo Portoghesiのような新しい自由な建築家の進化と共に1950年後期に見られはじめた。
彼らのすべての建物はローマへの曖昧な、また抑圧された歴史的言及、中世風、バロック建築の特性を示したけれども、モダニズムのミース、グロピウス、ル・コルビジェからの影響無くしてはあり得ない。この歴史的両面価値はポストモダン建築の主要な特色の一つで、一般的に二つの記号レベルに取り組む建築物にあてはまる。そしてそれは他の建築家に問いかけ、建築的意味についてとりわけ気にする少数派にとって重要である。
ジェンクスはこれをポストモダニズムの"2重のコード"、自覚する精神分裂症と呼び、歴史的アイロニーや盗用と全く同然だとした。

1949年
Joseph Hudnutにより'ポストモダンハウス'のコンテクストの中で"ポストモダン"という語が初めて使用された


Jencks' essay "The Emergent Rules" ポストモダニズムの11の特性

1.不調和の美、 2.多元主義、 3.都市風なアーバニズム、 4.擬人観(神人同形説)、  5.アナムネーシス(想起)、 6.折衷主義、 7.2重のコード、 8.マルチバレンス(多価)、  9.伝統の再解釈、 10.新しい修辞的比喩表現、 11.中心不在への復帰

  ジェンクスのようにスタンもまたポストモダン建築における3つの優位を占める原則と新しい修飾主義を強調した。 
  (a)contextualism(文脈主義) (b)隠喩  (c)装飾主義

  Paulo Portoghesiもまた過去や歴史の皮肉な再導入を空間的な建造物へとするポストモダン建築に注意を払い、また現代建築における「過去の存在」の重要な観念を強調する。